津城は、永禄年間(1558年~1570年)に細野藤敦(長野工藤氏の一族)によって築城された平城です。安濃津城(あのつじょう)と呼ばれることもあります。
1568年の織田信長の伊勢侵攻に際して織田氏の支配下に入り、翌年には織田信包(信長の弟)の居城となって改修を施されています。
1594年に織田信包が転封されると、豊臣氏家臣の富田一白が城主となりました。1600年の関ヶ原の戦いに際しては、一白の子の富田信高が東軍に付いたことで西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親の大軍に攻められ、九鬼嘉隆に海上を封鎖されて援軍要請もできず、多くの建築物を焼失した末、木食応其の調停で開城に至りましたが、戦後には抗戦の功績を認められ、江戸幕府から加増を受けています(安濃津城の戦い)。
1608年に富田信高が転封されると、代わって城主となった藤堂高虎による大改修を受け、城下町も整備されています。以降、明治維新に至るまで藤堂氏の居城であり続けました。
南北を岩田川と安濃川(あのうがわ)に挟まれる湿地に築かれた輪郭式の平城で、2つの川を天然の外堀に利用しています。藤堂高虎の時代の整備によって、城下町は現在の津市の基盤となりました。
現在では本丸跡と西の丸跡がお城公園として、二の丸跡がお城西公園として整備されており、入徳門(藩校の有造館で正門として使われていた門)が移築現存し、石垣や内堀などが遺構として残っている他、模擬三重隅櫓が建てられています。桜の名所としても知られています。
藩校有造館の入徳門
入徳門は、津藩の藩校である有造館の講堂の正門として建造された四脚門です。
有造館は1820年に藤堂高兌(たかさわ 津藩第10代藩主)によって創設された藩校で、1871年に廃校となりました。入徳門はその後も小学校などの校門や図書館の正門として使われ、1971年に現在地(お城公園)に移築されました。