人吉城は、元久年間(1204年~1206年)に相良長頼(相良氏の初代)によって築城された平山城です。球麻城、求磨城、繊月城、三日月城と呼ばれることもあります。相良氏の居城として知られています。
1198年に地頭として人吉荘に入った相良長頼は、同地を支配していた矢瀬主馬佑を謀殺して、主馬佑の居城だった原城へ翌年に入城、これを元にして人吉城を築きました。
1526年には跡目争いに乗じた北原氏(相良氏の姻戚)の大軍に包囲されましたが、わずかな援軍を大勢に見せかけるという相良義滋の計略によって撃退に成功しています。以後も相良氏の居城であり続け、明治維新を迎えるに至っています。
1877年の西南戦争では、薩摩軍の拠点となっていたことで政府軍の攻撃を受け、堀合門を除く全建物を焼失しました。
球磨川と胸川との合流地点の南東の丘陵地帯に築かれた梯郭式の平山城で、東麓に御館(城主の居館)を置き、その東~南を武家屋敷群として、それらの外側の川沿いに石垣を巡らせています。天正年間(1573年~1593年)に始まって1639年まで断続的に実施された大改修によって、石垣を多用する近世城郭となっています。幕末の火災後に設けられたはね出し石垣(頂部に張り出しを設けた石垣)が特徴です。
現在では人吉城跡公園として整備され、御館跡庭園が現存、石垣や曲輪などが遺構として残っており、隅櫓・多聞櫓および続塀・堀合門が復元されています。西端には人吉城歴史館があります。堀合門の実物(人吉城では唯一の現存建築物)は、近隣の旧新宮家武家屋敷に移築されています。南隣の丘陵地帯には、原城跡があります。