烏山城(からすやまじょう)は、1418年に那須資重(下那須氏の初代)によって築城された山城です。臥牛城と呼ばれることもあります。
兄の資之(上那須氏の初代)と対立して沢村城を追われた沢村(那須)資重は、上杉禅秀の乱(1416年)で鎌倉公方・足利持氏に付き、持氏の勝利によって地位を確立、烏山城を築いて下那須氏(1514年に上那須氏の滅亡を受けて那須氏を統一)の本拠としました。
戦国時代後期には宇都宮氏や佐竹氏に何度も攻め込まれましたが、ことごとく撃退しています。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際に城主の那須資晴が参陣の遅れを咎められて改易され、同じく改易された織田信雄(織田信長の次男)が短期間ながら城主となります。翌年には成田氏長が烏山を与えられ、1622年に断絶するまで成田氏の城となって、烏山藩の藩庁も置かれました。
その後には城主が頻繁に代わり、1681年には那須資弥(徳川家綱の叔父、那須氏の養子)が城主となったものの1687年に烏山騒動で改易、さらに交代が続いた末、1725年に大久保常春が城主になるとようやく落ち着き、大久保氏の城として明治維新を迎えています。
城山の山頂を中心に築かれた複郭式の山城で、主な曲輪を直線的に連ねつつ、その周囲を空堀で区切って、さらに帯曲輪を各所に配しており、五城三郭と呼ばれています。堀親昌が城主を務めていた1658年頃には東麓に三の丸が築かれ、城主居館もここに移りました。
現在では那珂川県立自然公園の一部となっており、石垣・空堀・土塁などが遺構として残っています。