飫肥城(おびじょう)は、南北朝時代に土持氏(地元豪族、伊東氏の姻戚)によって築城されたと伝えられている平山城です。伊東四十八城の一つとして知られています。
伊東氏との対立を深めた土持氏が島津氏の傘下に入ると、15世紀半ば頃から島津氏と伊東氏との100年に及ぶ争奪の舞台となります。1562年に伊東方の攻撃で落城、1568年には約5ヶ月の包囲を経て伊東氏に奪還されたものの、1572年の木崎原の戦い(伊東義祐と島津義弘との合戦)で島津方が勝利して、1577年に再び島津氏の支配下となりました(伊東崩れ)。しかし、豊臣秀吉に士官して九州平定(1587年)で先導役を務めた伊東祐兵が、その翌年に飫肥城を与えられると、伊東氏の居城として明治維新に至っています。
酒谷川の北岸の台地に築かれた平山城で、シラス台地を空堀で区切って各曲輪を群郭式に配した南九州型城郭です。17世紀末には、本丸の移転や御殿の建設などの改修が行われました。基本的には土塁と空堀で防御する土の城ですが、新旧本丸では石垣も併用しています。
現在では、石垣・土塁・堀切などが遺構として残り、大手門・土塀・松尾の丸御殿・旧本丸北門が復元されている他、本丸跡には御殿を模した飫肥城歴史資料館があります。近隣には豫章館(明治初年に旧藩主の伊東祐相・祐帰父子が住んだ屋敷)や飫肥藩の藩校「振徳堂」(1831年設立)が現存し、武家屋敷跡にも多くの遺構が残っています。