佐野城は、1600年頃に佐野信吉(豊臣秀吉奉行衆の富田一白の子、佐野氏の養子)によって築城された平山城です。春日岡城、春日城、姥城と呼ばれることもあります。
この地の北に位置する唐沢山城を本拠としていた佐野信吉は、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利すると、その意を受けて唐沢山城を廃城として佐野城を築城、藩庁も佐野城に移しました。しかし1614年に信吉は改易(兄の富田信高に連座)、佐野は幕府領となって、佐野城も廃城となりました。
春日岡を中心として築かれた連郭式の平山城です。直線的に連ねた曲輪を堀切で区切り、外堀として水堀を巡らせています。近世城郭としては単純な構成が特徴です。城下町は、現在の佐野市の基盤となりました。
現在では城山公園として整備されており、曲輪や堀切が遺構として残っている他、発掘調査で見つかった石垣・石畳の石が展示されています。また、築城時に場所を譲って城の南西に移転した惣宗寺(佐野厄除け大師)の惣門は、佐野城三の丸門の移築と言われています。
佐野城の移築城門
佐野厄除け大師は、944年に藤原秀郷の開基で創建された天台宗の寺院です。正式名は春日岡山転法輪院惣宗官寺です。関東の三大師の1つに数えられています。
薬医門形式の惣門は、佐野城の三の丸門を廃城時に移築したものと言われています。
堀田佐野城
堀田佐野城(ほったさのじょう)は、1684年に堀田正高(堀田家正高流分家初代)によって築城された平城(陣屋)です。佐野城、植野城、佐野陣屋、植野陣屋と呼ばれることもあります。
堀田正高は、父(幕府大老・堀田正俊)の死に伴いその所領を分与されて佐野藩を再興し、堀田佐野城を築いて藩庁としました。しかし、1698年に正高は近江堅田藩へ移封され、佐野は幕府領に戻りました。
1826年に堅田藩主の堀田正敦(堀田家正高流分家第6代)が堀田氏の旧領である佐野に移封されると、1828年には藩庁として堀田佐野城が再築され、明治維新に至っています。
単郭式の平城で、外堀を巡らせ、郭内に泉(御泉水)を配しています。
現在では、佐野城墟碑や佐野城郭図が建てられている他、堀田佐野城址公園が整備されており、御泉水を模した修景池が造営されています。