阿波一宮城跡:徳島県徳島市一宮町西丁
一宮城(いちのみやじょう)は、1338年に小笠原長宗(阿波小笠原氏)によって現在の徳島市一宮町西丁(いちのみやちょう にしちょう)に築城されたとされている山城です。
この城を築いて居城とした小笠原長宗は、一宮神社大宮司の一宮宗成に代わって一宮氏を称しています。南朝方の一宮氏と北朝方の細川氏との対立の中、一宮成宗が城主となっていた1350年には細川頼之に焼き討ちされ、1362年に成宗が頼之に敗れると、後に一宮成行(成宗の子)が北朝方に転じて細川氏の支配下に入っています。
戦国時代後期になると阿波は阿波三好氏と長宗我部氏との勢力争いの舞台となっており、1578年には篠原自遁(阿波三好氏家臣)に攻められて、城主の一宮成相が撤退し落城しています(翌年に帰城)。1581年、織田信長の命を受けた十河存保(三好長慶の弟)に攻められましたが持ち堪え、土佐の長宗我部元親の来援を恐れた存保を撤退に追い込みました。存保は翌年にも三好康長と共に一宮城を攻めましたが、本能寺の変の勃発を機に康長が撤退したこともあって、同時期に阿波へ侵攻した元親に敗れました(中富川の戦い)。戦後、成相は元親に謀殺され、一宮城は元親の支配下で増築されています。
1585年、羽柴秀長(豊臣秀長 豊臣秀吉の弟)・蜂須賀正勝(小六)・藤堂高虎・増田長盛・仙石秀久ら羽柴軍に攻められ、城代の谷忠澄は籠城して善戦したものの、やがて撤退して長宗我部元親に降伏を説きました。間もなく元親が秀吉に屈して四国攻めが終了、この戦役で功績を挙げて阿波を与えられた蜂須賀家政(蜂須賀小六の嫡男)が一宮城に入って大改修を施しています。家政が徳島城に移転するとその支城(阿波九城)の1つとなり、家臣の益田氏が城代に任じられましたが、一国一城令(1615年)を受けて1638年に廃城となりました。
東竜王山の北東の枝尾根に築かれた大規模な山城で、鮎喰川を始めとする河川や四国山脈などの天然の要害を利用しつつ、堀切などで防備を固めています。野面積みの石垣は、蜂須賀家政の改修の際に造られたものと考えられています。谷地に設けられた貯水池とそこから流れる陰滝も特徴です。北東麓には御殿居(居館)があります。
現在では登山道が整備されており、石垣・堀切・虎口・貯水池などが遺構として残っています。
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