姫路城:兵庫県姫路市本町
姫路城は、1346年に赤松貞範(赤松則村の次男)によって築城された平山城です。白鷺城と呼ばれることもあります。現存12天守の1つとして知られています。
元弘の乱(鎌倉幕府と後醍醐天皇による争い)の末期に当たる1333年、護良親王の令旨に応えて挙兵した赤松則村は、姫山の称名寺に縄張りして、小寺氏を配していました。1346年になると、赤松貞範が称名寺を麓に移して姫山に築城、この当時には姫山城と呼ばれていました。1349年に貞範が庄山城を築いて本拠を移すと、小寺氏が城代を務めています。
1441年の嘉吉の乱(室町幕府将軍の足利義教が赤松満祐に暗殺されたことに始まる動乱)で赤松氏が山名持豊(宗全)らに討伐されて一時断絶すると山名氏の所領となりますが、1458年に長禄の変(後南朝に奪われていた神璽を赤松氏遺臣が奪還した事変)で功績を挙げた赤松政則が赤松氏再興を許され、1467年には赤松氏の所領に戻りました。1469年に政則が置塩城を築いて本拠を移すと、小寺氏が再び城代を務めました。
1545年には小寺則職が御着城に移り、城代となった家臣の黒田重隆・職隆親子によって1555年~1561年に改修されて本格的な中世城郭となりました。
織田信長から中国攻めを命じられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1576年に播磨へ進出すると、翌年には城代の黒田孝高(官兵衛)が二の丸に移って秀吉に本丸を譲っています。1580年に秀吉が播磨を制圧し、孝高が国府山城に移ったことで、秀吉の本拠地となって近世城郭へと改修され、姫路城と改名されました。1583年には秀吉が大坂城に移って羽柴秀長(豊臣秀長 秀吉の弟)の居城になり、1585年に秀長が転封されると木下家定が入城しました。
1600年の関ヶ原の戦いが終わると、その戦功として池田輝政が入城し、大改修を施しています。1617年に池田光政(輝政の孫)が転封となって以降、親藩大名・譜代大名が歴代城主を務めて、明治維新に至っています。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、老中の酒井忠惇が城主を務めていたことから旧幕府方と見なされ、新政府軍に包囲されましたが、北風正造(摂津の豪商)の仲介などもあって降伏し、戦禍を免れました。
姫山と鷺山を中心に築かれた渦郭式の平山城で、優雅かつ豪華でありながら、多数の狭間(射撃用の窓穴)を備えるなど戦闘用の城として築かれています。大天守と3基の小天守(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成される連立式天守が特徴です。石垣は、羽柴氏時代の野面積み、池田氏時代~本多氏時代の打込接・算木積み、江戸時代の切込接と、時代によって様々です。菱の門は伏見城からの移築、との一門は置塩城からの移築と伝えられています。
現在では内曲輪跡と中曲輪跡が姫路公園として整備されており、天守閣を始めとする多くの建築物が現存し、石垣・堀・土塁などの遺構が残っています。桜の名所としても知られています。
国の特別史跡、国宝、国の重要文化財、世界遺産