飯盛山城:大阪府四條畷市南野
飯盛山城(いいもりやまじょう)は、16世紀前半に木沢長政(畠山義堯の家臣)によって築城された山城です。飯盛城と呼ばれることもあります。三好長慶の居城として知られています。
この近辺には、1348年の四條畷の戦い(高師直・佐々木道誉ら北朝方と楠木正行ら南朝方との戦い)に際して陣城が築かれた、と考えられています。
河内守護となった畠山義堯の命によって、この陣城を元にして木沢長政が築城し、居城としました。細川京兆家当主の細川晴元と義堯との関係が協力から対立へと変わった1532年、城主の長政が晴元方に寝返ると、義堯は三好一秀(勝宗)に飯盛山城を攻めさせましたが、長政は晴元に援軍を要請、晴元の命を受けて一秀は兵を収めました。翌年にも義堯と一秀に三好元長も加わった連合軍に攻められましたが、それに対抗して晴元が山科本願寺に一揆軍の支援を要請、畠山・三好連合軍の撃破に成功しました(飯盛城の戦い)。
1542年に木沢長政が太平寺の戦いで三好長慶(三好元長の子)に討たれると、畠山氏家臣の安見宗房が城主になりました。しかし1559年には長慶に攻め落とされて畠山高政が城主となり、高政と和解した宗房がいったん城主に返り咲いたものの、翌年には再び長慶の侵攻を受けて宗房も高屋城にいた高政も撤退、長慶は芥川山城から本拠を移して飯盛山城の城主となりました。1562年に高政の攻撃を受けましたが、援軍に駆け付けた安宅冬康(長慶の弟)や松永久秀と城方との挟撃によって撃退しています(教興寺の戦い)。
1564年に三好長慶が病死すると、1568年には足利義昭を伴って侵攻してきた織田信長と三好義継や三好三人衆との戦いの末、信長の支配下に入り、畠山秋高(畠山高政の弟)の居城となりました。しかし1573年に秋高が家臣の遊佐信教に殺され、翌年には佐久間信盛・細川藤孝・筒井順慶・明智光秀・塙直政・森長可ら織田軍によって高屋城と共に攻撃されて落城、1576年には廃城とされました。
生駒山地の北西に位置する飯盛山に築かれた、西日本有数の大規模な山城です。日本の城としては、石垣(野面積み)を用いた最初期の例です。
現在では登山道が整備されており、土橋・堀切・石垣などの遺構が残っている他、楠木正行の像や展望台が建てられています。城跡の一部は楠公寺(日蓮宗の寺院 四條畷の戦いの戦死者を弔う)となっています。
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