河後森城跡:愛媛県北宇和郡松野町松丸
河後森城(かごもりじょう)は、渡辺氏(伊予の国人)によって築城された山城です。川後森城と呼ばれることもあります。
1196年に渡辺連(渡辺綱の子孫)が入城した、との伝承があります。
築城以来の渡辺氏の居城として、16世紀前半以降には土佐一条氏と長宗我部氏との勢力争いの舞台の1つとなっています。渡辺教忠(土佐一条氏初代当主の孫)が城主を務めていた1580年頃、長宗我部氏に寝返った近習の芝政景が教忠を追放して河後森城を奪取しましたが、1583年に戸田勝隆(羽柴氏家臣)が政景を追放しています。1585年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中国を平定して小早川隆景の所領になった後、隆景が移封となった1587年から勝隆の所領に、勝隆の没後の1595年には藤堂高虎の所領になっています。
1614年に伊達秀宗(伊達政宗の長男、宇和島伊達氏の祖)が宇和島藩主になると、伊達氏重臣で付家老の桑折景頼が城主を務めましたが、1615年の一国一城令を受けて廃城になったと考えられています。
広見川(四万十川の支流)とそこから分かれる堀切川・鰯川に囲まれる丘陵に築かれた大規模な山城で、伊予と土佐の国境付近に位置する境目の城です。基本的に土造りながら、一部に石垣も用いられています。西~北~東を川に守られる一方、中央の谷地(風呂ヶ谷)をU字型に囲む尾根沿いに多くの曲輪を配して、南側(土佐方面)を強く意識した構成になっています。曲輪の間に堀切や切岸を設けた堅固な守りも特徴です。藤堂高虎の時代に天守閣が宇和島城に移築されて月見櫓となった、との伝承が残っています。
現在では登山道が整備されており、堀切・切岸・石垣・井戸などが遺構として残っている他、西第十曲輪で掘立柱建物・門・土塁・切岸などが復元されています。
国の史跡