観音寺城跡:滋賀県近江八幡市安土町桑実寺
観音寺城は、14世紀半ばに現在の近江八幡市安土町桑実寺(あづちちょう くわのみじ)に築城されたと考えられている山城です。佐々木城、鷦鷯城(ささきのしろ)と呼ばれることもあります。六角氏の居城として知られています。
近江守護の六角氏の本拠として、それまでにも砦として利用されていた観音正寺の近辺に築かれました。
1351年、観応の擾乱の際には、足利直義方・南朝連合軍に敗れた足利尊氏方の佐々木道誉らが籠城しました。
応仁の乱では、六角氏は東軍・西軍に分かれて争っています。最初の戦いでは、城主の六角高頼らが留守のところを京極氏(六角氏一族)の京極持清・勝秀親子に攻撃され、守将が迎撃に出るも敗北しました。次の戦いでは、六角政堯(高頼の従兄弟)と持清の連合軍に攻められ、放火して撤退しました。最後の戦いでは、焼失した城を修復して再び籠城し、京極軍を撃退しました。
その後、1487年と1491年の2度に渡って足利将軍に攻められましたが、いずれもいったん撤退してから山中で非正規戦を展開して奪還に成功しています(長享・延徳の乱)。
1496年の船田合戦では、斎藤妙純に攻められたものの、和睦しています。
1502年には六角氏被官の伊庭氏に反乱を起こされて退却、1516年にも再び反乱を起こした伊庭氏に攻められたものの勝利し、1525年に城主の六角定頼の留守を突かれてまたしても伊庭氏に攻撃されましたが守将が撃退しました。
1549年には、城下町で日本初の楽市令が公布されています。
1568年、南近江に侵攻してきた織田信長に包囲されると、支城の箕作城と和田山城を攻め落とされて城主の六角義賢・義治親子が撤退、非正規戦に移行したものの奪還できず、織田氏の支配下に入りました(観音寺城の戦い)。
西の琵琶湖や東の湖東平野を見下ろす繖山(きぬがさやま)の南面に築かれた、国内でも屈指の大規模な総石垣の城です。この石垣は1556年、六角義賢の時代に造られています。戦闘用の工夫には乏しいものの、支城の箕作城・和田山城と組んで防御力を発揮します。非常に多くの曲輪で構成されているのが特徴です。後に近辺の安土山で築かれた安土城は、観音寺城を参考にしたと言われています。
現在では登山道と自動車道が整備されており、埋門・石垣・虎口などの遺構が残っています。
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