大和郡山城跡:奈良県大和郡山市城内町
郡山城(こおりやまじょう)は、1162年に郡山衆(土豪集団)によって築城された平山城です。雁陣之城と呼ばれることもあります。
1506年、大和に侵攻してきた赤沢朝経に包囲され、郡山衆を始めとする多くの土豪が籠城したものの、落城しました。
16世紀後半には筒井順慶の支配下となっており、1570年から翌年にかけて松永久秀に攻撃されましたが、四方に付城を築かれながらも守り切っています。
1580年に織田信長が大和の城を郡山城のみとする破城令を発し、また筒井順慶が大和守護になると、郡山城は筒井城に代わる筒井氏の本拠とされ、1581年から明智光秀を普請目付として改修を施されました。
1585年に筒井定次(筒井順慶の養嗣子)が転封されると、豊臣秀長の居城となり、改修・拡張を施されて、城下町も整備されました。
1595年に豊臣秀保(豊臣秀長の婿養子)が死去すると増田長盛が入城、さらなる改修・拡張を行いましたが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍方に付いた長盛が戦後に改易されると、郡山城の天守閣は二条城(伏見城との説もあり)に、他の建築物の多くも二条城などに移築されました。
1615年の大坂の陣に際しては筒井定慶・慶之兄弟(筒井正次という説もあり)が入城しており、豊臣方の誘いを受けるも拒絶し、大野治房らに攻められて撤退、城下町に放火されるなどの損害を被っています(郡山城の戦い)。戦後、筒井兄弟は撤退を恥じて自刃しました。
大坂の陣が終わると水野勝成が城主となって修築を開始、その後も譜代大名の居城として江戸時代初期を通して修築・復興が続けられました。1671年には九六騒動(本多氏のお家騒動)の舞台にもなったものの、1724年に柳沢吉里(柳沢吉保の長男)が城主となって以降、柳沢氏の居城として明治維新を迎えています。
東の秋篠川と西の富雄川に挟まれて奈良盆地に築かれた、輪郭式の大規模な平山城です。石地蔵や羅城門の礎石など、多くの転用石が石垣に使われています。
現在では郡山城跡公園として整備されており、天守台や堀などの遺構が残っている他、追手門(梅林門)・追手東隅櫓と多聞櫓・追手向櫓・極楽橋が復元されています。桜の名所としても知られています。南に隣接する郡山高校にも、外堀(鷲池)や土橋が遺構として残っています。
都道府県の文化財