高知城:高知県高知市丸ノ内1丁目
高知城は、14世紀頃に大高坂氏(平田俊遠の子孫とされる地元豪族)によって築城されたとされている平山城です。鷹城と呼ばれることもあります。現存12天守の1つであり、本丸の全建造物が現存する唯一の城として知られています。山内一豊の城としても有名です。
築城当時には大高坂城(おおたかさかじょう 大高坂山城とも)と呼ばれており、南北朝の争乱における舞台の1つとなっていました。南朝方の大高坂松王丸が城主を務めていた1339年に北朝方の攻撃を受け、翌年には援軍も撃退されて、落城しています。
1585年~1587年頃、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命で従軍していた九州攻めから戻った長宗我部元親が、大高坂城の跡地で新たに城を築いたものの、水害に悩まされ、1591年には浦戸城に移っています。
1601年、長宗我部盛親(長宗我部元親の四男)が関ヶ原の戦い(1600年)で西軍方に付いたことで改易されると、代わって土佐を与えられた山内一豊は、まず浦戸城に入った後、城下町も考慮した上での適地として大高坂山を選定、築城術に長けた百々綱家を総奉行として新たな城を築き、城下町も整備しました。1603年に一豊が入城した際に河中山城(こうちやまじょう)と命名され、1610年に高智山城、後に高知城と変わりました。1611年に完成して以降、山内容堂など山内氏の居城として、明治維新に至っています。
多くの河川が浦戸湾に注ぐ三角州、鏡川と久万川に挟まれる大高坂山を中心として築かれた、梯郭式の平山城です。江戸時代の近世城郭でありながら、戦闘用の工夫が多く凝らされています。海上交通の便に優れる反面、難工事となった築城の後にも多くの水害に見舞われるなど治水の問題を抱えており、防水・排水の工夫が各所に見られるのも特徴です。築城時には浦戸城の資材が流用され、石垣の造営には野面積みの他に打込接も用いられています。掛川城(山内一豊のかつての居城)のものを模したとされる天守閣は、1727年に焼失したものの、1747年に再建されています。
現在では高知公園として整備されており、天守閣・本丸御殿(懐徳館)・追手門(大手門)など多くの建築物が現存し、堀や石垣などが遺構として残っています。園内には高知城歴史博物館や山内一豊・千代(一豊の妻)・板垣退助の像があり、桜の名所として、また夜間のライトアップでも知られています。
国の史跡、国の重要文化財