益田城跡:島根県益田市七尾町
益田城は、1193年に益田兼高(御神本兼経)によって築城された山城です。益田七尾城、七尾城と呼ばれることもあります。
源平合戦(治承・寿永の乱)で功績を挙げて所領を安堵された益田兼高によって築かれ、平野部にあった益田氏居館の詰城となっていました。1336年に大手口が三隅氏(益田氏の分家、南朝方)に襲撃されたことが、記録に残っています。
戦国時代後期には、益田氏は大内氏傘下の有力な国人となっていました。しかし、益田氏と姻戚関係にあった陶氏が1555年の厳島の戦い(大内氏の実権を握った陶晴賢と毛利元就との戦い)で敗れ、毛利軍が石見に侵攻すると、益田城は城主の益田藤兼によって大改修を施されたものの、1557年には藤兼が吉川元春(元就の次男)と和睦して毛利氏の支配下に入りました。
1600年の関が原の戦いで西軍総大将を務めた毛利輝元が戦後に転封され、益田元祥(益田藤兼の子)がそれに随伴すると、廃城になりました。
益田平野の南部を流れる益田川の南岸、日本海までを一望する七尾山に築かれた連郭式の大規模な山城で、北麓付近まで細長く伸びた2つの尾根に沿って曲輪を配し、その間の谷筋を大手道としています。益田藤兼による大改修の際、中世の山城としては珍しく居館機能を付加されています。畝状竪堀の多用や大堀切も特徴です。益田川を挟んだ北西には、三宅御土居(戦国時代以降の益田氏居館)があります。
現在では登山道が整備されており、畝状竪堀・堀切・曲輪などが遺構として残っています。
国の史跡