三木城址:兵庫県三木市上の丸町
三木城は、1492年頃に別所則治(赤松氏庶流)によって築城された平山城です。釜山城、別所城と呼ばれることもあります。秀吉の三大城攻めの1つである「三木の干殺し」の舞台として知られています。
播磨を巡る争いで山名政豊に敗れた播磨守護の赤松政則を守り立てて播磨奪還に貢献し、政則から東播磨8郡を与えられて守護代となった別所則治が、本拠地として築きました。
1530年、同じ赤松氏家臣である浦上氏と別所氏が対立し、三木城は細川高国・浦上村宗の連合軍に攻め落とされますが、城主の別所就治(別所則治の孫)は脱出に成功し、翌年の大物崩れで高国と村宗が敗死すると三木城を奪還しました。1538年~1539年には2度に渡って尼子晴久の攻撃を受けましたが、撃退しています。
別所長治が城主であった1577年、織田信長に毛利攻めを命じられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が軍議(加古川評定)を開き、別所吉親(長治の叔父)もそこに出席していましたが、その翌年に長治が毛利方に寝返ると(評定で秀吉の不興を買った吉親が謀反を促したとの説あり)、秀吉に包囲されて兵糧攻めに遭い(三木の干殺し)、城を出て戦いを挑むも敗北を重ねて、1年10ヶ月の籠城の末に降伏して開城、長治は自刃しました(三木合戦)。
1600年の関ヶ原の戦いまで豊臣氏の支配下にあり、戦後に池田輝政が播磨を与えられるとその宿老の伊木氏が城主となりましたが、1615年の一国一城令に伴って破却されました。
美嚢川の南岸、上の丸台地に築かれた平山城で、播磨三大城の1つに数えられる大規模な土造りの城です。北の川や南の山など、天然の要害に守られています。廃城後の1618年に明石城が築城された際には三木城の資材が用いられた、と言われています。
現在では本丸跡が上の丸公園として整備されており、天守台や井戸などの遺構が残っている他、別所長治の像や慰霊碑が建てられています。周辺には、三木合戦の際に築かれた付城の土塁などが遺構として残っています。