中村城:高知県四万十市中村
中村城は、為松氏(地元豪族)によって築城されたと考えられている平山城です。為松城と呼ばれることもあります。
1467年に応仁の乱が始まり、それを逃れて京都から土佐へ一条教房が下向してくると、為松氏はその家臣となり、中村城は教房の居館として整備されました。ここに土佐一条氏が成立し、土佐中村は小京都と呼ばれるほどに栄えました。
1509年に岡豊城(長宗我部氏の本拠)が落城した際、城を脱出した長宗我部国親(長宗我部元親の父)は、土佐一条氏を頼り、中村城で幼少期を過ごしています。
1574年、城主の一条兼定が長宗我部元親に追放される(京都の一条氏本家の意向と考えられている)と、土佐一条氏家老と地元国衆との争いが勃発し、それに乗じた元親が進軍、中村城には吉良親貞(元親の弟)が入城しました。その翌年、豊後に逃亡していた兼定が大友氏の支援を受けて挙兵し中村城に迫るも、親貞は来援した元親と共に兼定を撃破(四万十川の戦い)、土佐一条氏は事実上滅亡し、土佐は長宗我部氏によって統一されました。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍方に付いたことで長宗我部盛親(長宗我部元親の四男)が改易され、山内一豊が土佐を与えられると、山内康豊(一豊の弟)が城主になりましたが、1615年の一国一城令を受けて廃城になりました。
四万十川と後川に挟まれる為松山を中心として築かれた、連郭式の大規模な平山城です。周囲には丘陵が連なっており、為松山の北西にも曲輪が設けられています。
現在では為松山の山上が為松公園として整備されており、石垣・堀切・土塁などが遺構として残っている他、二の丸跡に模擬天守(四万十市郷土資料館 犬山城天守を模している)が建てられています。北西の丘陵は整地されて市街地になっています。
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