大内氏館跡:山口県山口市大殿大路
大内氏館(おおうちしやかた)は、15世紀半ばに大内教弘(周防守護)によって築造されたと考えられている城館です。14世紀半ばに大内弘世(周防守護)によって築造されたという説もあります。
大内氏の居館かつ守護所として築かれ、大内氏の繁栄と共に改修・拡張されています。北西にある築山館も、大内教弘によって築かれたと言われています。
1551年に大内氏家臣の陶隆房(晴賢)が謀反を起こし、大内義隆を自害に追い込んで大内氏の実権を掌握(大寧寺の変)した後、晴賢に擁立された大内義長(大友宗麟の弟)が当主として大内氏館に入りました。1555年の厳島の戦い(毛利元就と晴賢との戦い)で晴賢が敗死すると、義長は詰城(高嶺城)を築いて毛利氏の侵攻に備えようとしましたが、1557年に元就が侵攻してくると撤退を余儀なくされ、大内氏館は毛利氏の支配下に入りました(防長経略)。1558年、毛利隆元(元就の嫡男)が大内氏館跡に龍福寺(大内教弘によって1454年に開基)を移し、義隆の菩提寺としました。
山口盆地の中央付近、空堀と土塁を外周に巡らせた方形の城館で、京都の将軍邸を模していると言われています。内部に3つの庭園を備える他、北西に別邸の築山館(築山御殿)を配しています。西の鴻ノ峰には詰城の高嶺城が築かれましたが、大内義長の時代には完成しませんでした。
現在では、土塁や石組溝などが遺構として残っており、西門・池泉庭園・枯山水庭園が復元されています。中心部には龍福寺があり、その本堂(大内氏の氏寺である興隆寺の釈迦堂を1883年に移築・改造)は1479年の建立とされています。
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