利神城跡:兵庫県佐用郡佐用町
利神城(りかんじょう)は、1349年に別所敦範(赤松氏一族)によって築城された山城です。雲突城、平福城と呼ばれることもあります。
赤松氏の居城である白旗城の北の守りとして築かれました。1441年の嘉吉の乱(室町幕府将軍の足利義教が赤松満祐に暗殺されたことに始まる動乱)の際に赤松氏と別所氏は一時滅亡しましたが、1466年には別所氏後裔の別所治定が城主に返り咲いています。
織田信長から中国攻めを命じられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1576年に播磨へ進出すると、城主の別所定道は秀吉に服しましたが、定道に代わって城主になった別所林治(定道の弟)が別所長治(別所氏嫡流)の謀反に同調し、1578年には織田方の尼子勝久(上月城主)と山中幸盛(鹿介)に攻め落とされました。その後、上月城が毛利氏に攻め落とされると(上月城の戦い)、利神城は宇喜多直家の支配下に入っています。
1600年の関ヶ原の戦いが終わると、西軍方の主力を務めた宇喜多氏が改易される一方、池田輝政が播磨を与えられたことで、1601年に城主となった池田由之(輝政の甥)による大改修を受けて、武家屋敷や城下町も整備されました。1615年に池田輝興(輝政の六男)が城主となりましたが、1631年には池田政綱(輝政の五男)の死去に伴って輝興が赤穂藩を継ぐことになり、利神城は廃城となりました。
佐用川の東岸に位置する利神山の山頂から尾根伝いに曲輪を配する連郭式の山城で、佐用城・上月城・高倉城と合わせて赤松氏の城郭群を構成しています。池田由之による大改修の際、その壮観に驚いた池田輝政が、幕府を刺激することを恐れ、天守閣の破却を命じた、と伝えられています。
現在では登山道が整備されており(入山には予約必須)、石垣・曲輪・虎口などの遺構が残っています。