信貴山城跡:奈良県生駒郡平群町信貴山
信貴山城(しぎさんじょう)は、南北朝時代に楠木正成によって現在の生駒郡平群町(へぐりちょう)に築城されたという伝承のある山城です。信貴城、磯城と呼ばれることもあります。松永久秀の終焉の地として知られています。
1460年に根来寺との合戦に敗れた畠山義就が信貴山に陣を退いた、1500年前後に畠山尚順が信貴城を使用した、といった記述が史料に残っています。
16世紀前半になると木沢長政(河内守護代)によって本格的に築城されましたが、1542年の太平寺の戦いで長政が三好長慶や遊佐長教らに討ち取られた後、信貴山城も落城しています。
1559年、大和に侵攻してきた松永久秀によって修築され、翌年には大和を平定した久秀の支配拠点となりました。1568年に三好三人衆方の三好康長に攻め落とされましたが、織田信長が足利義昭を伴って上洛してきたことで義昭の援軍を得た久秀によって同年中に奪還され、1570年には多聞城に代わる久秀の本拠となっています。
1577年、反織田氏勢力に呼応した松永久秀が石山合戦から離脱して籠城しましたが、織田信忠(織田信長の長男)・筒井順慶・明智光秀・佐久間信盛・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・丹羽長秀らの織田軍に包囲され、城下や郭内を焼かれた末に、久秀が名器「古天明平蜘蛛」を叩き壊し、天守閣に火を放って自害、信貴山城は落城し、松永氏は滅亡しました(信貴山城の戦い)。
生駒山系の信貴山(北の雄嶽と南の雌嶽)に築かれた山城です。松永久秀の時代に100を越える曲輪を配した大規模な城となり、本丸に4層の天守櫓が建てられています。
現在では登山道が整備されており、曲輪・土塁・切岸・石垣などが遺構として残っている他、石碑が建てられています。南麓付近にある朝護孫子寺の霊宝館には、菊水の旌旗(1331年墨書 楠木正成の軍旗)や菊水紋付の兜(楠木正成の所用と伝わる)などが展示されています。
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