高嶺城跡:山口県山口市上宇野令字高嶺
高嶺城(こうのみねじょう)は、1556年に大内義長(大友宗麟の弟)によって築城された山城です。鴻の峰城、鴻之峯城と呼ばれることもあります。
大内氏の本拠である大内氏館の詰城として、毛利元就の防長経略に備えて築かれましたが、1557年に元就が侵攻してきた時点では未完成で、大内義長は善戦したものの、間もなく勝山城へ撤退しました。その後、毛利氏の下で完成し、市川経好(吉川氏一門、毛利氏家臣)が入城しています。
1569年、大友宗麟と毛利元就が北九州を巡って争う中で、大友水軍の支援を受けた大内輝弘(大内義隆の従兄弟)が周防に上陸し、大内氏遺臣を吸収しつつ龍福寺(大内氏館跡)と築山館(大内氏館別邸)に拠って城主不在の高嶺城を攻撃しましたが、城主の妻(市川局)の指揮下で守りを固めた高嶺城を攻め落とすに至らず、やがて九州から戻ってきた吉川元春らの毛利軍が迫り離反者が続出すると、城攻めを断念して撤退しました(大内輝弘の乱)。
関が原の戦い(1600年)で西軍総大将を務めた毛利輝元が戦後処理で転封された後、広島城に代わる毛利氏の本拠の候補に高嶺城も挙げられましたが、幕府の許可を得られませんでした(本拠は萩城に決定)。1615年の一国一城令を受けて破却されることになり、1638年に廃城となりました。
1862年に長州藩主居館の移転が決定すると、1864年に新たな居館として山口城が築かれ、高嶺城跡はその詰城とされました。
山口盆地の中央付近に接する鴻ノ峰の山頂から南面の尾根にかけて連郭式に築かれた、大規模な山城です。東には大内氏館が、周辺の山々には古城ヶ岳城や姫山城など大内氏の城郭群があります。東麓には、後に山口城が築かれています。
現在では登山道が整備されており、曲輪・石垣・畝状竪堀などが遺構として残っています。
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