高取城跡:奈良県高市郡高取町高取
高取城(たかとりじょう)は、1332年に越智邦澄(南朝方の土豪)によって築城されたと伝えられている山城です。芙蓉城、鷹取城、高取山城と呼ばれることもあります。日本三大山城の1つに数えられています。
越智氏の本城である貝吹山城の支城として築かれ、戦国時代になると貝吹山城に代わって本城となっています。
1532年、本願寺証如の率いる一向一揆衆が大和に侵攻して興福寺を焼き払い、興福寺の僧兵が高取城に退避すると、高取城は一揆衆に包囲されましたが、筒井氏(興福寺衆徒)らによる援軍が後背を突いて一揆衆を撤退させ、勝利しました(天文の錯乱)。
1580年、大和の城を郡山城のみとする織田信長の破城令を受けて廃城とされましたが、信長の死後の1584年には筒井順慶によって本格的城郭として再築されました。翌年に順慶が転封されると豊臣秀長の所領となり、まず脇坂安治が、次いで本多利久が入城して改修を施し、武家屋敷も整備しています。
豊臣秀吉の死後に城主の本多俊政(本多利久の長男)が徳川家康に服すると、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に攻められたものの、城主不在ながらこれを防ぎ切りました。
1637年に本多氏が廃絶となって城番が立てられ、1640年に旗本の植村家政が城主になると、明治維新に至るまで植村氏の居城であり続けました。1863年には天誅組(尊皇攘夷派浪士の集団)に襲撃されましたが、撃退しています(天誅組の変)。
奈良盆地を一望する高取山に築かれた、連郭式の山城です。390mの比高(日本一)や約30kmの郭内周囲など、山城としては日本最大級の規模を誇ります。江戸時代初期まで度々改修を施され、不便な山城でありながら天守・小天守・石垣・門・殿舎などを備える近世城郭となっており、石垣の造営には打込接と算木積みが用いられています。合計29棟もの白漆喰塗りの櫓も特徴となっています。
現在では登山道が整備されており、天守台・櫓台・堀など多くの遺構が残っています。
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