鳥取城跡:鳥取県鳥取市東町2丁目
鳥取城は、天文年間(1532年~1555年)に但馬山名氏によって築城されたと考えられている平山城です。久松城(きゅうしょうじょう)、久松山城と呼ばれることもあります。因幡三名城の1つに数えられている他、秀吉の三大城攻めの1つである「鳥取城の渇え殺し」の舞台として知られています。
因幡守護の山名誠通と但馬守護の山名祐豊との対立の中で、但馬山名氏側の付城として築かれた、と考えられています。
永禄年間(1558年~1570年)には因幡山名氏家臣の武田高信(因幡武田氏)が城主となっており、鳥取城を攻撃した山名豊数を撃退(湯所口の戦い)するなど、豊数やその弟の山名豊国らを圧迫して山名氏配下から離脱しましたが、1573年に豊国と山中幸盛(鹿介)ら尼子氏残党による連合軍に攻められ、1ヶ月強の籠城の末に降伏して開城、鳥取城は因幡山名氏の本拠となりました。同年に吉川元春(毛利元就の次男)の攻撃を受けて豊国が降伏し毛利豊元(因幡毛利氏)が城主となるも、翌年に再び尼子氏残党に攻められて降伏、1575年の芸但和睦(毛利輝元と山名祐豊・堯熙親子との和睦・同盟)の成立を受けて尼子氏残党が撤退すると豊国が城主に返り咲きました。
1580年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の率いる織田軍が因幡に侵攻してくると(第一次鳥取城攻め)、降伏しようとした山名豊国を家臣の森下道誉と中村春続が追放して抗戦の意を示し(織田氏との内通が発覚して豊国自ら出奔したとの説もあり)、翌年には救援を要請された吉川元春が家臣の吉川経家を入城させたものの、徹底的な兵糧攻め(鳥取城の渇え殺し)に遭い、4ヶ月の籠城の末、城兵の助命を条件として降伏して、経家・道誉・春続が自刃しました(第二次鳥取城攻め)。戦後、豊臣氏家臣の宮部継潤が城代(1585年に城主)となっています。
1600年の関が原の戦いでは、宮部長房(宮部継潤の子)が西軍方に付いたことで、決戦終了後に東軍に攻められて開城しました。戦後に長房が改易されると、まず池田長吉(池田氏傍系)が、1617年には池田光政(池田氏宗家)が入城し、1632年に池田光仲(因州池田氏)が鳥取藩主となって以降、因州池田氏の居城として明治維新を迎えています。
久松山に築かれた梯郭式の大規模な平山城で、山上の丸(山城部)と山下の丸(平山城部 天球丸・二の丸・三の丸・右膳の丸)で構成されています。戦国時代以降の各時代の築城技術が随所に見られることから、「城郭の博物館」とも称されています。
現在では、登山道が整備されている山上の丸跡に天守台・石垣・井戸などが遺構として残っている一方、久松公園として整備されている山下の丸には大手門・中仕切門・巻石垣が復元され、宝隆院庭園(1863年造営)や仁風閣(1907年建造の洋館)があります。久松公園は桜の名所としても知られています。
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