柳川城跡:福岡県柳川市本城町
柳川城は、文亀年間(1501年~1504年)に蒲池治久(筑後の国人領主)によって築城された平城です。柳河城、舞鶴城と呼ばれることもあります。
蒲池氏の本城である蒲池城の支城として築かれました。筑後十五城(大友氏幕下の有力国人領主)の筆頭になるなど勢力を増していく蒲池氏の下、蒲池鑑盛(蒲池治久の孫)の時代に改修を施されて、この頃までには蒲池氏の本城となっていました。
蒲池鎮漣(蒲池鑑盛の次男)が城主となっていた1580年頃、龍造寺隆信に攻められ、長期間の籠城戦によく耐えるも兵糧が尽きたことから和睦、さらに蒲池氏と龍造寺氏との姻戚関係も結びましたが、後に鎮漣は隆信に謀殺され、その一族(下蒲池氏)も柳川の戦いで滅ぼされて、柳川城にはまず鍋島直茂(隆信の義弟)が、次いで龍造寺家晴(隆信の娘婿)が入城しました。
1584年、沖田畷の戦いで龍造寺氏に勝利して勢いに乗る立花道雪・高橋紹運ら大友軍の攻撃を受けましたが、防ぎ切っています。
豊臣秀吉による九州平定後の1587年には、立花宗茂(高橋紹運の実子、立花道雪の養嗣子)の所領になっています。1600年の関ヶ原の戦いでは、宗茂が西軍方に付いたことで決戦後に黒田如水・加藤清正・鍋島直茂に攻められ、城外での戦闘に敗れた後、如水と清正の説得を受けて開城しました。
関ヶ原の戦いの戦後処理で、立花宗茂が改易される一方、石田三成の捕縛という功績を挙げた田中吉政が城主になると、改修・拡張を施されました。1620年に田中忠政(吉政の4男)が没して田中氏が断絶、宗茂が旧領に復帰して(改易後に旧領を回復して大名に復帰した唯一の例)、以後には立花氏の居城として明治維新に至っています。
筑後平野の南西部、沖端川(おきのはたがわ)が有明海に注ぐ河口付近に築かれた平城です。本丸と二の丸を幅の広い内堀で囲み、その外周に三の丸や武家屋敷などを配して、他にも堀を様々に巡らせつつ、沖端川・塩塚川・二ツ川を天然の外堀として利用するなど、当時の戯れ歌で「柳川三年肥後三月、肥前筑前朝飯前」と歌われたほどの堅い守りを特徴としています。田中吉政の時代に改修・拡張されて、天守閣を備える近世城郭となりました。1697年に立花鑑虎が本丸の南に集景亭を建て、1738年には立花貞俶がそれを元に増改築するなどして奥機能を移転し御花畠と命名、幕末にはここが藩主別邸として用いられました。城下町は、現在の柳川市の基盤となりました。
現在では、本丸と二の丸の跡は柳城中学校や柳川高校などに、御花畠跡は柳川藩主立花邸 御花(旅館)に、その他は市街地になっています。柳川藩主立花邸 御花には、西洋館など多くの建築物とそれらを擁する立花氏庭園(1909年~1910年に立花寛治が建造・造園)が現存する他、立花家史料館があります。柳城中学校には天守台が、各所に堀・石垣・土塁などが遺構として残っています。舟で堀を巡る川下りも有名です。
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