妙教寺:京都府京都市伏見区納所北城堀
淀古城(よどこじょう)は、室町時代中期に畠山政長(山城守護)によって現在の京都市伏見区納所北城堀(のうそ きたしろぼり)に築城されたと考えられている平城です。藤岡城、淀城と呼ばれることもあります。茶々(浅井長政の長女、織田信長の姪、豊臣秀吉の側室)が淀殿と呼ばれるきっかけになった城として知られています。
畠山政長が従兄弟の畠山義就との家督争い(後に応仁の乱へと発展)に際して守護所として築城した、と推定されています。
1493年以降には細川氏の所領となっており、1504年に細川氏家臣の薬師寺元一が細川政元を裏切って籠城し、政元と敵対していた赤沢朝経も城方に加わりましたが、政元方に攻め落とされました(第一次淀古城の戦い)。
戦国時代後期になると三好氏の支配下となり、さらに松永久秀と三好三人衆との三好氏家臣同士の争いの舞台となって、1566年に三好三人衆によって攻め落とされましたが、1568年には上洛を果たした織田信長の攻撃で落城しています。
1573年、室町幕府将軍の足利義昭が織田信長と対立して挙兵すると、石成友通(三好三人衆の一人)がそれに呼応して淀古城に籠城し、織田方の木下秀吉(豊臣秀吉)と細川藤孝(幽斎)の攻撃に対して打って出たものの敗北しました(第二次淀古城の戦い)。
1582年、本能寺の変の後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との決戦に備える明智光秀に改修を施され、山崎の戦いで秀吉が勝利すると豊臣氏の支配下となります。
1589年には豊臣秀長(秀吉の弟)の改修を受けて茶々の産所とされ、以後の茶々はこの城に因んで淀殿と呼ばれるようになりました。
1595年、豊臣秀次が謀反を疑われて切腹すると、城主の木村重茲(秀次の家老)も連座し、廃城となりました。
宇治川・木津川・桂川の合流地点付近、交通の要衝に築かれた平城です。廃城後、多くの資材が伏見城の築城に使用されたと伝えられています。
現在では跡地は納所小学校・住宅地・田畑などになっており、妙教寺(法華宗真門流の寺院)に石碑が建てられています。