吉田郡山城跡:広島県安芸高田市吉田町吉田
郡山城(こおりやまじょう)は、築城年・築城者不明の山城です。吉田郡山城と呼ばれることもあります。毛利元就の居城として知られています。
1336年、安芸吉田荘の地頭の毛利時親(安芸毛利氏の祖、大江広元の曾孫)がこの地に下向して以降、安芸毛利氏の本拠となりました。この頃には小規模な砦(旧本城)でした。
1523年に毛利元就が入城すると、1550年頃まで続く改修・拡張を施されています。その最中の1540年、尼子詮久(晴久)が侵攻して吉田郡山城を攻撃しましたが、毛利方が籠城しつつも度々打って出て尼子方に痛撃を加え続け、やがて救援に駆けつけた大内義隆や陶隆房(晴賢)らの大内軍が尼子方の本陣を襲うに及んで、詮久は城攻めを断念して撤退しました(郡山合戦)。
その後も毛利輝元(毛利元就の孫)の代まで毛利氏の本拠であり続けましたが、大身となった毛利氏にとって狭く不便になっていたことから、新たな本拠として築かれた広島城に輝元が入城した1591年には事実上の廃城となりました。1615年の一国一城令を受けて破却された上、1637年に島原の乱が勃発すると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、より徹底的に破却されています。
可愛川(江の川の上流部)と多治比川に挟まれて吉田盆地を見下ろす郡山に築かれた大規模な山城で、山頂の本丸から放射状に伸びる尾根のそれぞれに多くの曲輪を配している他、支尾根や谷筋にも曲輪を設けており、曲輪の総数は270にも及ぶとされています。南麓近くの尾根に築かれた旧本城は、中世の山城の特徴を良く留めています。毛利元就の時代の改修・拡張によって山全体に広がって居館と城砦の一体化を果たし、毛利輝元の時代には石垣や瓦葺を用いた近世城郭となっています。
現在では、曲輪・石垣・井戸などが遺構として残っています。南西麓には、安芸高田市歴史民俗博物館があります。
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